瞑想を実践 -意識を感じる

2019/6/28 金曜日

 

今日は瞑想をした。

というのも、ある本がきっかけだ。

 

最近読んでいるデヴィット・リンチの『大きな魚をつかまえよう』という本は、リンチが実践している一日2回の瞑想によって創作活動がどのように膨らんでいくかについて書かれたエッセイいである。

 

今日読んだ2つの章で思ったことを記す。

 

①『イレイザーヘッド

リンチの初期作イレイザーヘッドの脚本を執筆中に、作中で「連なるシークエンスが何を語るのか」それを解く鍵をずっと探していたという。そこで聖書を取り出して読み始めてみると、ある一節が目にとまり、その一節が作品の全体像を教えてくれたのだそうだ。本作は直感的に全てのアイディアを注いで作った作品だったため、リンチ自身、作品の全体は想像もつかなかったという。

 

私も、アイディアがいくつも浮かび、それによって1つの作品に仕上げようとするが、そのアイディアの連なりが何を表すのか?脚本執筆中はほとんど理解できていない。作品の全体のヴィジョンを納得を持って認識できるのは、脚本を執筆した後、作品が完成した後だったりするものだとさえ思う。

 

私も、今執筆中の脚本で、連なるシーンが何を表しているのか、その鍵を探している。もっと脚本を俯瞰してみたくなるが、シーンの中身を埋めている今それはとても難しいようだ。細部を埋めるとかは俯瞰は出来ないということがよくわかってきた。

 

ただ、脚本の第1稿執筆後に、本作の脚本を突き通す一本の槍のようなものを見つけられたらと思う。そして第2稿を書き始められたらいいな。とにかく、槍を欲して待つのみ。

 

②『意識』

本章で面白かった文書は下記の通りだ。

「純粋意識の体験は、人間の内側を活性化し、押し拡げる。ゴルフボール大の意識しかなければ、なんだってゴルフボール程度の吸収しか出来ないし、ゴルフボール程度の幸福しか得られない。でも意識を広げて成長させることができるなら、本を読んで、もっとたくさんのことが理解できる。より深い領域で、アイディアを得ることが可能になる。創造力がほんとうの意味で溢れてくるよ。」

心救われるランチからのメッセージだった。

脚本を書き始めると、書いてるシーンが予想以上につまらなくてしょうがなく感じてしまうときがある。どう試行錯誤しても、書いてる自分自身が、そのシーンをどう楽しめばよいのか分からないのだ。そういう時、書く手は止まってしまう。

意識を広げること、つまりそれは、あらゆるものから敏感に感情の揺れやイメージをキャッチするという事だと思っている。それが、アイディアの創造に繋がるのだと。書く手が止まるとか、私の頭も感覚も感情も停止している。そんなんじゃやっぱり書かなくて当たり前なのだ。

 

意識を広げる訓練を始めた。

まさに、リンチのいう瞑想だ。

まだ創作に結びついてる実感はない。

だが、この瞑想している時の感覚はなんとも言えない。横になり、目を瞑り、深い呼吸を心がける。すると外界からシャットアウトされてゆく。眠っているが、頭は動いていて、夢を見ているみたいになる。その夢と夢を見ている自分を俯瞰して見ている自分がいる。そうして、俯瞰して見ている自分は、淡々と浮かんできたイメージを書き留めていくのだ。今日の私の瞑想は言葉にするとそんな感じだ。側から見ると、眠っているらしいのだが。頭の中はとても動いていた。これが意識なのか?

明日もやってみよう