円環 -デイヴィット・リンチ『大きな魚をつかまえよう』
2019/6/25 火曜日
脚本を3ページ半進ませることができた。
デイヴィット・リンチ著作
「大きな魚をつかむえよう」
を最近数ページずつ読み進めている。
34ページ 「円環」というエッセイが素敵だった。
リンチによると、映画は観客を拠り所にしているもので、観る一人一人によって、上映される度に、違うものになるのだという。
それは、観客から映画に、映画から観客に至る円環があるからなんだと。
観客一人一人が観て、感じて、自分自身の物事に対する感覚を受け止める。それは作者の自分とは全く違ったりする。
この「円環」という章を読んで自分の創作の態度について思ったことがある。
最近短編作品の脚本を書いていて、これは観ているお客さんからしたら退屈なんじゃないか?とかもっと笑えるシーンがあった方がいいのでは?なんて思ったりすることがある。
だが、この考えは、本来本作で私が映像にしたいと渇望した1つのアイディアを膨らませ脚本に落とし込んだ結果の付属品のまた付属品くらいなものなのかもしれない。映像にしたいと渇望したアイディアが幹だとしたら、このお客さんに対して考える事というのは、葉っぱでもなく、葉っぱの周辺の空気のようなものなのかもしれない。だとしたら、それはきっと作品の輪郭を作ってくれるものではないだろう。ただ私の不安を掻き立てるだけのもので、創作とはまた別の話だ。
この章の最後にリンチはいう、
「人々の心を打つにはどうすればいいかなんて、誰にもわからない。どうすれば人々を感動させたり、傷つけたりできるのかと考えるくらいなら、そんな風に策を労するくらいなら、映画を作るのをやめたほうがいい。人はただ愛することをするだけであり、何が起きるかは知る由もない」
私も、最初に映像化したいと渇望しだアイディアをぶらさないこと。とことん愛してやることだ。面白いかどうかではなく、ただ愛してやることだと思った。葉っぱの周辺の空気の動きは、木が完成したら感じればいい。