海獣の子供4巻は親と子の繋がりを語る

2019/6/12 水曜日

 

今日は主に、

海獣の子供4巻を読み、

「親子の関係」で思ったことと、

シネ・ウインドで観た「バイス」と「ROMA」の感想を記します。

 

9:30 起床

ゴミ出しを忘れた。

空のペットボトルがどんどん溜まっていく。

 

10:00 海獣の子供1巻を読む

本作は現代の家族観を知るのに最適だ。

3人家族の主人公ルカは、父と別居していて、母と2人暮らしだ。

 

11:00 昼食

卵とキャベツと味噌汁。

 

11:30 海獣の子供4巻を読む 

海獣の子供第4巻は、海と人間の繋がりから、親と子の繋がりについても語る素晴らしい回だ。

 

核家族になり、ましてや父親が家に帰ってこないと、母⇄子の関係がとんでもなく濃くならざる終えないのだと教えてくれた。あらゆる問題は家庭内で解決してくれ、家の外に持ち出すのは恥じであるみたいな空気感が社会には確かにあって、親子の関係で解決するのが美徳のように感じられる世の中だなと思う。その中で、母親という役割を担った女性は、どのように欲望し幸せになるのか?こんな疑問が湧いてくる。

 

主人公ルカの母親の加奈子は、夫から「君とルカはそっくりだ。やる事は唐突だし、大勢の中にいるとなおさらだ。」と言われる。

加奈子は、デデという船乗りのおばあちゃんにこの事を話すシーンがとても印象的だった。

自分の身体を抱きしめるように言うのだ。

「ルカは私と似てるんだって。ルカも私と同じなのかな...」

加奈子に対してデデは次のように話す。

「私もさ。そしてアングラード(本作に登場する異端の研究員)もさ。私たちは似た者同士ってわけさ。」

この後、加奈子の表情はパッと明るくなる。

さらに、デデは次のようにいう。

「海は彼岸なんだよ。そして女の体は、彼岸と繋がっている。女の体は彼岸からこっちの岸へ生命を引っ張りだす通路なんだから。」

この時、加奈子は自身に満ちた、いや確信に満ちた表情を浮かべる。

 

ここで私が思ったことは次の通りだ。

親子間で問題を解決することが美徳という現代の価値観の中では、母親の他者との繋がりは家族へ閉じていってしまう。責任と母性とが入り混じり、繋がりは子へと集中していくのだろう。だが、閉じた世界では救われないと私は思う。一点に集中した繋がりの重さは親と子を縛って身動きの取れないものにするに違いない。だからこそ、デデのような、母という役割を理解し受け止めた上で「母という役割の尊厳」を教えてくれる存在が必要であり、そして母である女性の感受性の部分を分かち合える理解者が、この世界にはもっと存在するということを教えてくれる存在も必要なのだろう。つまりそれは、母という役割を抜きにして1人の人間として認めてくれる存在が家の外にいることを教えるということだ。

 

そして、

「ルカは私の身代わりになって罰を受けるかもしれない。」と嘆く加奈子に対してデデは次のように言うのだ。

「それはあんたの物語だ。子供には子供の別の物語がある」

 

きっと多くの母は、デデのような存在に出会えないのかもしれない。自分の物語の延長に子供の人生があると感じているのかもしれない。子供は、母の物語からとっくに飛び越えているのに。

 

デデのように諭し導く存在が増えていけばなと思う。たとえ、彼女の論理が神話に繋がろうが、実感し納得できるのなら、それは何て素晴らしい出会いだろう。現代の日本は何て生きづらいことだろう。

 

14:00 シネ・ウインドへ

バイス

アメリカのリベラルが本気を出して作った映画だった。

本作は、

イラク戦争を起こし、

法の解釈を捻じ曲げ拷問を許し、

何人もの人を殺してしまった男の動機が、

妻や娘に褒められること、あの幸せをもう一度であったため、アメリカのしてきたことは身も蓋もない大変愚かしいものであったと嘆いているお話だった。

日本で今後このようなリベラル派の挑発的な映画は作られることがあるのだろうか?という疑問がふつふつと湧いてきた。

 

『ROMA』

「声なき者を描くことができるのが映画だ」ということに気づかせてくれた一作だ。

流産してしまった主人公が、子供を助けに海に潜り帰還する1カットは素晴らしかった。

一度死に生き返る、とはこの事かと。

静かに淡々と不条理が語られていく本作のトーンがとても好きだった。

 

21:00 夕飯

モツ炒め。

 

23:00 坂爪真吾氏に出会う

出会うというのは、彼の著作をウインドで発見し借りてきたということだ。

「孤独とセックス」という本を読もうと思う。

 

1:00 就寝予定