私にとっての先生

2019/5/30

 

昨年よりお世話になっていた彫刻家の先生から、「僕の後を継がないか」というお話をいただいたのだが、私は映画の制作に集中したいと思っているため、昨日お断りをした。

 

その際、先生は「はっきりと思っていることを全て話してくれ。」とおっしゃって下さったので、あまり自分の意見をはっきり言わない私も、さすがにこの時は思っていること全てを話し尽くした。

 

その次の日先生と顔を合わせたら、とんでもなく態度が一変しておられた。まともに口を聞いてくれなくなってしまった。それまでの先生は私を娘のように可愛がって下さり、時には厳しく、時には優しく、色んなことを教えてくださる方だった。

 

これほど距離を置かれてしまうのかと、私は大変ショックを受けた。

 

この件で一つ気づいたのが、私はだいぶ他人に対して自分をどこまでも受け入れてくれるものだと思い込んでいた。例え私がはっきりと思っている事をお伝えしても、先生は折り合いをつけて今まで通りの態度をとってくれるものだと思っていたのだ。

 

だから、自分の予想とは全く違う結果になった今回、先生の態度の変貌に対して、とても動揺してしまったのだなと思う。

 

また、もう一つ、私は先生にとって特別な存在なんだと思い込んでいた。それは、先生が私に才能があると言って下さり、そのほかの能力についても評価してくれていたということが理由として大きい。だから後継者として私を考えて下さったのだと。私は先生の後継者としては唯一無二な人間なんだとさえ思っていた。

だが、今思い返すと、そういえば、私に声をかける前に別に後継者候補がいて、その方との仲が悪くなったという話があった。

つまり先生は、ずっと後継者を必要としていて、前の候補者は後を継がないということになり、その後釜に私がちょうど良かったというだけのことだったのだ。そして私が無理ということで、また他の人に声をかけるのだろう。

 

私は、だいぶ自分に対して思い上がった考えをしていたということが分かった。

 

この件の後、先生との関係が絶たれた後で、自分に残されたのは、思った事をはっきり言い切ったという一種の開放感のみだった。その勇気に対しては、大変自分を褒めてやりたい。

 

 

まとめると、

私は、他人にとっての自分ばかりを気にして生きてきたのだなと思う。気にするあまり、相手が少し褒めただけで自分を過大評価していたり、相手の自分に対する対応の変化でこんなにも落ち込んだり若しくは嬉しくなったりする。

私が気にしていたのは、他人が自分をこう思っているはずだと勝手にイメージして出来た自分の像なのだ。そして、その像に振り回されているだけなのだ。

 

ここで大事なのは、シンプルに相手のことを自分がどう思っているのかだと思う。「相手にとっての自分」のイメージは関係ない。相手のやっていること、自分のやりたいこと、自分にとって相手はどういう存在か、それらを鑑みた時の自分の相手に対する気持ちが、自分にとって一番重要だ。そこを明確に持っていれば、相手の態度の変化によって動揺することもないだろう。

 

先生は、信念の下で常に行動し続けている方だ。私が、生き方に迷っていた時、その先生の姿は私に色んなことを教えてくれた。信念が定まらずとも、まずは自分が感じた違和感、直観を文字に書き出し、それを信じること。そして、そのために行動すること。そうすると、どんどん自分が感じる方へ進んでいけるということ。これは、映画制作という軸ができた今も変わらず必要なことだ。

迷いから抜け出すには、自分が信じたいものを理解すること、そして信じたいことを毎日行動にしていくこと。この事を私に教えてくれた存在が先生でした。