チャリカルキ演劇公演「逃げ男」 鳥の歌にて
2019/6/30 日曜日
今日の分の脚本を書き終え、
18:00から、白山の鳥の歌で行われたチャリカルキさんの演劇公演「逃げ男」を観てきました。
去年の冬ノイズムの公演を観てからだから一年半ぶりくらいの観劇。
演劇の脚本って面白いなと思いました。
ほとんどネタバレなので、観にいかれる方は読まないで〜。
あらすじ
何かと逃げ癖のある青年ケイスケは、自分の母が座長を務める劇団の団員をしている。彼は、自分の逃げて来た人生を演劇にしようと劇団に話を持ちかけ、公演を打ち、稽古も始めるが、結局は公演2週間前になり逃げてしまう。困った団員の1人は、ケイスケと瓜二つの青年をたまたま見つけ、彼に代役を任せる。そして行われる稽古のシーンから物語はスタートする。
感想
①脚本の構造が面白い
劇中劇の中で繰り広げられるケイスケの逃げる様子は、この劇に存在するケイスケ自身の逃げ続けてきた過去である。
団員による稽古練習が進めば進むほど、つまり劇中劇が進行すればするほど、不在であるはずのケイスケという人物像が見えてくる。
このような不在の人間の人物像が見せられていく構造は、映画「市民ケーン」を応用したものだと思った。応用の仕方がとても斬新だ。
②逃げ男と市民ケーンの共通点
最後の最後までケイスケという人物は出てこないが、既に劇中劇で語られているため、観客は彼をとても知っているように思う。
市民ケーンも、最初に主人公の人生を取り上げたニュース映画が冒頭に流れるため、実際に物語に彼が登場しても、観客は彼を既に知っている気になる。
③逃げ男と市民ケーンの違い
市民ケーンはこの冒頭のニュース映画で、ラストまで物語を貫く「ある謎」を提示する。冒頭後の物語はこの謎を解くためのものとなる。この謎の存在がラストまで物語の面白さを持続させる。
しかし、逃げ男の劇中劇ではケイスケの逃げる理由までもが分かりやすく描かれてしまっているため、「なぜケイスケは逃げるのか?」という理由はこの物語の謎にはならない。そう考えると、物語を終始一貫するようなテーマは「逃げること」になる訳だが。逃げることに対して、母親が苦しくても踏ん張ってあなたの居場所に戻れと諭しているから、この作品の主張はまさにそれなのだ。だとしたら、私はラストにあまり納得がいかなかった。ラストは母親が、ケイスケが何故逃げてしまうのか?という理由を愛情深く説明してくれるわけだが、それは観客は既に知っているし、それを超えてくれる何かを見せてくれないとラストとしては拍子抜けだ。
④まとめ
終始演劇としての「生」の楽しさを感じられ、演技の一つ一つの小ネタも面白かった。
7月13日にも新潟公演があるとのこと。
興味のある方は是非〜